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どうも、前回は大変お騒がせしました。

まさかアメリカのことをいって同族日本の黄泉国醜女(よもつしこめ)達に追い回されることになるとは思ってもいなかったので、本当にエライ目にあいました・・・・


その後、ほぼ自動操縦で淡(αアΩワ)路島にある太陽族、石原軍団御用達の「岩屋(イシヤ)神社」に行ってしまい、そこから逃げに逃げて、四国のカズラ橋や、九州の櫛山を通り、気付いたら筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にある神社に居ました。もちろんこの行動は意図して行っている訳ではありませんが・・・結果としてこうなった訳です。16fd9bb8.jpeg

しかしなんで私がこんな目に会うのかというと、どうも過去世でアトランティスを沈めた挙句、自滅した闇権力サイドに在籍していたらしく、今回の出来事はその時のカルマを返上するために発動したのかもしれません。宇宙の法則には誰も逆らえませんね。


そもそも、この世で繰り広げられるような人生劇というものは、善悪すら超越した宇宙創造神(通称、監督)が時代を超えたアクション映画を撮っているようなもので、善役や悪役ですら自分達が気付かないままキャスティングされているもんです。どんな権力者であってもあたえられた環境が配役であって、大きな視点では監督の手の平からは逃れられないのでしょう。そして、配役ひとりひとりが使命を与えられ、試されているわけです。ですから早く台本(神示!?)を腹に入れて、ストーリーをつかんだほうが名優とされるのかもしれません。まあ、かなりイタズラとアドリブ好きな監督ではありますが・・・


↓↓↓彼も大変な役を引き受けたもんです。顔から察するに前世はどっかの寺の大仏でしょう(笑)


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さて、今回私は被災地にも行ってきました。確かに私には、今回の事件で色々失ったものがあります。しかし、被災された地域に比べ、ブログの更新を続けられる今の自分に感謝しつつ、今回も記事を記したいと思います。地震&放射能ネタは他の人にお任せして、私は久々のタロットカードネタ!

そもそもタロットカードのカモワンマンダラのような大アルカナ22枚の並べ方自体が『人間から神』への意識進化の航路図となっています。この辺はまた機会があったらお話します。

Tarot20Marseille.jpg

過去に「運命の車輪」のカードを説明しましたが、今回のテーマは「審判★ジャスティス★」のカード。そしてそれ読み解くために必要なストーリーの一つ、日本神話「イザナギ、イザナミの千引きの岩戸開き」について説明したいと思います。
 
まず初めにこのコラムを読むための前提として、『古事記』、『日本書紀』に記された日本神話の概要をおさらいimagesCAJO4KMR.jpgします。

日本神話によれば、宇宙の始まりは、ただ混沌としているだけでした。そんな中、まず初めに登場したのは、天之御中主神でした。続いて次々と四柱の神が現れましたが、これらの神はみな独り神(男女に分かれる以前の神)で、みんなで“別天つ神”と呼ばれ、いつのまにか姿を消してしまいました。

次に、国土の本をなす根源神として、国常立之神が産まれました。そしてこの神を母体に豊雲野神が産まれましたが、この二神も独り神でいつのまにか姿を隠してしまいまいした。

続いて男女ペア五組の神が相次いで現れました。五組目に現れたのがイザナギの神と、イザナミの神です。この神々は男女ペアで一代とされるので、ここまでで計五代となり、これに先に登場した国常立之神と豊雲野神を加えて“神世七代”といいます。

神世七代により、世界はおおよその形を整えたが、まだ完全ではありませんでした。そこでイザナギとイザナミの男女二神は委任を受けて、国づくりと人づくりを開始します。イザナギとイザナミが天の浮橋の上から沼矛をさしおろして、下方をぐるぐる掻き回すと、海がコロコロと鳴って矛の先から潮が滴り落ちそれが重なり積もって島となりました。これがオノゴロ島です。
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まず初めに両神はオノゴロ島に下りて、天の御柱を立て、さらに八尋殿という家を立てて、夫婦の交じわりをして国土生みをしていきました。しかし産まれたのは肢体不自由の水蛭子(ヒルコ)という神でした。両神は水蛭子(ヒルコ)にがっかりして、葦船に乗せて流し去ってしまいました。次に生まれたのが淡島(あわしま)という島でしたが、これも失敗作でした。困った両神は「どこが悪かったのか」を天の神々に聞いたところ、「女から先に声をかけたのが良くない」ということでした。
そこで今度はイザナギのほうから誘いの言葉をかけ、交じわりをやり直しました。すると問題なく事が運び、こうして次々と島々を産み、日本列島が完成しました。

国土産みが終わると、次は岩や土の神、河や海の神、風や木や野や山の神、霧の神に谷の神といった多くの神々を産みましたが、最後に火之迦具土(ほのかぐつち)という火の神を産んで、イザナミの神は女陰を火傷(やけど)して死んでしまいます。最愛の妻を失ったイザナギの神は、怒りのあまり火之迦具土(ほのかぐつち)の首を即座にはねてしまいました。死んだイザナミの神は、夫の嘆きをよそに、黄泉国(死者の国)へと旅立っていきました。

しかしイザナギの未練はやみません。あきらめきれない彼は、妻の後を追って黄泉国に出かけて行きました。そして、戸口に迎え出たイザナミに、「愛しい妻よ、そなたとの国産みはまだ終えてはいない。一緒に帰って再び国づくりに励もうではないか」と誘いました。するとイザナミは、「私はすでに死者の国の食べ物を食べ、体が汚れてしまいました。けれども、何とか帰れるよう、この国の神に相談してみます。ただし、それを待つ間決して中を見てはいけませんよ」と、きつく言いおいて、奥へ消えました。

イザナギは、初めは約束を守っていたのですが、いくら待っても返事がないのでしびれを切らし、ついに中を見てしまいました。するとそこには、全身にウジがわき、穢れから産まれた雷神たちがとりついた、醜い妻の変わり果てた姿が横たわっていました。驚いたイザナギがあわてて逃げ出すと、イザナミは怒りにふるえ、「よくも私に恥じをかかせてくれましたね!」と、叫んで、黄泉国の醜女達(しこめたち)や雷神達に夫を捕らえるよう命じました。

イザナギは、頭の飾り十拳の剣などを使いながら必死に逃げました。そしてこの世と死者の国との境、黄泉比良坂(よもつひらさか)という所までたどりつき、そこに生える桃の実を投げつけることでやっと追手を退散させる事が出来ました。

しかし、遂にはイザナミ自身が鬼もかくやの形相で追いかけてきました。そこでイザナギは、千人の力で引かねばならないほどの大岩を引いてきて動かして黄泉比良坂(よもつひらさか)の出入り口をふさぎ、これを盾に離60da8d1c.jpeg縁を宣言しました。

イザナミはいきり立ち、「愛しい夫よ、こんな仕打ちをなさるなら、私はあなたの国の人間を一日千人殺してやりましょう」と呪いの言葉を言い放ちました。一方、イザナギも負けずに、「ならば私は一日に千五百の産屋(うぶや)を建て子供を生ませよう」と言い返しました。こうしてこの世では一日千人の人が死ぬと、代わりに千五百人の人が生まれることになりました。

その後、イザナギは死者の国の穢れを払うため、筑紫の日向の地に向かい、楔(みそぎ)を行ないました。このとき、左目を洗って産まれたのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)、右目を洗って産まれたのが月読之命(つきよみのみこと)、鼻を洗って産まれたのが素佐之男命(すさのおのみこと)です。


日月神示にも以下のようにあります。

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、』日月神示 五十黙示録 第二巻 碧玉の巻 第十帖

『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ。』日月神示 五十黙示録 第六巻 至恩の巻 第八帖

千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ。これが日本の国の、又地上の別名であるぞ、数をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが、その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七乃至八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。』日月神示 五十黙示録 第六巻 至恩の巻 第九帖

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では、イザナミという女神の正体とは、一体何なのでしょう?結論をズバリ先に言うと、それは『旧約聖書』の神「ヤハウェ」ということになりそうです。いや、逆でした「ヤハウェ」の正体こそが日本神話の「イザナミ」なのでしょう。ちなみに「ヤハウェ」は決して宇宙創造神ではありません。


『聖書は日本神話の続きだった!』(佐野雄二著、ハギジン出版、2008年)の中で、著者の佐野さんは驚くべき気付きを数多く提示してくれています。同書における佐野さん大きく提示したいポイントは以下の二つあります。
①新・旧の聖書の神は同一ではなく、『旧約』は女神、『新約』は男の神である。
②新・旧の聖書は日本神話の続きである。

この辺りの指摘は本当に目が覚める思いがしますので、以下にご紹介します。尚、抜粋にあたりわかり易いように、『旧約聖書』からの引用箇所をおもに♀♀♀…の記号で囲み、『新約聖書』の引用箇所を♂♂♂…で囲みました。

>>>>引用ここから
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『旧約』の神ヤハウェは女の神、『新約』のキリストの「父なる神」は男の神と、性別も異なっている。神に性別などあるのかと問う人がいるかもしれないが、日本神話でもイザナミは女の神、イザナギは男の神と性別は分かれている。これまでの解釈では、『新約』の神と、『旧約』の神は同一の神とされてきた。

 ~中略~だが、事実は全く異なり、『新約』と『旧約』の神は別で、性別さえ違うというのが本書の第一の指摘である。~中略~聖書の神が複数いることの証明として、『旧約』の「創世記」第一章に次の記述がある。

♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀
「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と空の鳥と家畜
と……地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分たちのかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。」 (創1126、27)
♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀♂♀

~中略~つまり神には男女一対の神がおり、その男神と女神に似せて人間の男と女とを創造したのである。

~中略~本書の最重要のテーマの一つは「新・旧の聖書は日本神話の続き、続編である」とするものである。
 まさか! と驚くような仮説であるが、日本神話においてイザナギとイザナミは、夫婦神として共に国造りと人づくりの役目を担ったが、ちょっとしたことから大喧嘩になってしまった。その大喧嘩の怨念を引継いで物語を展開したのが新・旧の聖書である、というとらえ方である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


引き続き佐野さんは『旧約』の神「ヤハウェ」の性別が“女性”で、『新約』の神が「天なる父」という“男性”であることの証拠を徹底的に調べ上げています。
 引き続き同書の中から“『女神、母、♀、旧約、ヤハウェ、イザナミ』VS『男神、父、♂、新約、イザナギ』の構図と、“そして聖書のは日本神話の続きである”という2つの主張をポイントを絞って野さんの言葉を引用しながら対戦★バトル★形式で解りやすくまとめたいと思います。

【Round 1.残虐さバトル】

♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀
「……しかしアマジヤは勇気を出し、その民を率いて塩の谷へ行き、セイル人一万人を撃ち殺した。またユダの人々はこのほかに一万人をいけどり、岩の頂に引いて行って岩の頂から彼らを投げ落としたので、皆こなごなに砕けた」(歴代志下25-11)

「その翌日彼らは全イスラエルのために主に犠牲をささげた。すなわち蟠祭として雄牛一千、雄羊一千、子羊一千をその灌祭と共に主にささげ、おびただしい犠牲をささげた。」(歴代志上29-20)
「モーセの後継者であるヨシュアは、アイの町の人々一万二千人をことごとく殺した。」(ヨシュア記8-25)

「ダビデの時、軍の長ヨアブは、六ヶ月エドムにとどまって、エドムの男子をこと己とく殺した。」
(列王紀上11-15)

また『旧約』の「エステル記」でも、自分たちを憎む七万五千人もの人々を、無差別に殺戮している。(エステル記9-16)

「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。……あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して千代に至るであろう。」(出エジプト記20-3)
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                      VS


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「右の頬を打たれたら、ほかの頬も出し私さい。」(マタイ福音書5-39)

「あなたを捕らえて下着を取ろうとする者には上着をも与えなさい。」(同5-40)

「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(同5-44)
♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂


【判定】
『旧約』では「目には目を、歯に歯を」と、明らかに報復型の復讐的制裁を説いている。
こうした大量殺裁や残虐性は、『新約』には一切見られない、『旧約』独自の驚くべき傾向である。また『旧約』においては、神ヤハウェ自ら、ねたみや嫉妬心、執念深い神であることを認めている。
これは『新約』における無限の愛の教えとは正反対の、明らかに矛盾したもので、これらを同一の神による教えだとするのは、あまりにも無理がある。

もし同一の神なら、『新約』の教えは本来、「右の頬を打たれたら、相手の頬をすぐに打ち返しなさい」、「下着を取られたら、相手の上着をも取り上げなさい」、「汝の敵を憎み、迫害する者にははっきりと仕返しをしなさい」となるべきだろう。そうしないと、新旧の聖書における一貫性が保てない。

こうしたことも、『旧約』の神ヤハウェは日本名イザナミだと知れば納得がいく。つまりイザナミは「イザナギの国の人間を一日千人殺す!」と半狂乱の怨念をもって別れた。だから『旧約』の神ヤハウェとなって現われた後も、イザナギの国の人々を大量に殺すという勢いで殺人を犯すのである。
 また、イザナギに対する怒りが背景にあるから、『旧約』の神ヤハウェとなって現われてからも、報復的刑罰は、断固として「三、四代に及ぶ父の罪」によるのであり、「千代にいたる恵みは母の恵み」なのである。神ヤハウェがイザナミであることの決定的な証拠であるが、このように、新・旧の聖書は日本神話の続き、続編であると知って初めて、聖書の数々の不可解な点が説明できるのである。




【Round 2.ファッションバトル】

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「モーセはイスラエルの人々の全会衆に言った。『これは主が命じられたことである。あなたがたの持ち物のうちから、主にささげる物を取りなさい。……すなわち金、銀、青糸、紫糸、緋糸、亜麻糸、やぎの毛糸。あかね染めの雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともし油、注ぎ油と香ばしい薫香とのための香料、縞めのう、エポデと胸当てとにはめる宝石……』」 (『旧約』出エジプト記35-4)

「…すなわちあなたは成長して大きくなり、一人前の女になり、その乳房は形が整い、髪は長くなったが、着物がなく、裸であった。
私は再びあなたのかたわらを通ってあなたを見たが、見よ、あなたは愛せられる年齢に達していたので、私は着物のすそであなたを覆い、あなたの裸を隠し、そしてあなたに誓い、あなたと契約を結んだ。そしてあなたは私のものとなったと、主なる神は言われる。そこで私は水であなたを洗い、あなたの血を洗い落として油を塗り、縫い取りした着物を着せ、皮のくつを履かせ、細布をかぶらせ、絹のきれであなたをおおった。また飾り物であなたを飾り、腕輪をあなたの手にはめ、鎖をあなたの首にかけ、鼻には鼻輪、耳には耳輪、頭には美しい冠を与えた。このようにあなたは金銀で飾られ、細布、絹、縫い取りの服をあなたの衣とし、麦粉と、蜜と、油とを食べた。あなたは非常に美しくなって王の地位に進み、あなたの美しさのために、あなたの名声は国々に広まった。これはわたしが、あなたに施した飾りによって全うされたからであると、主なる神は言われる。」 (エゼキエル書16-17)
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「……地上に宝をたくわえてはならない。……あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」 (マタイ福音書6119)
「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」
(マタイ福音書19-24)
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【判定】
 『旧約』の神ヤハウェへの捧げ物は、神が命じたものとして豪華で賛沢な装飾品が並び、ヤハウェは随分と贅沢で物質欲の強い神だな、というのが率直な感想である。女を美しく飾るときのきめ細やかな気配りぶりは男の神には無理で、明らかに女の神だと言える。人間でも金、銀、宝石やさまざまな飾り物を好むのは男より女の方が強い。

 それに対して『新約』のキリストは、「地上に宝をたくわえるな」と警告する。『旧約」の神ヤハウェが神への捧げ物として高価な装飾品などを求めるのとは、あまりにも対照的な違いである。『新約』の神は男の神で、『旧約』の神ヤハウェは女の神だとするゆえんである。





【Round 3.グルメバトル】

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「もしその燔祭(はんさい)の供え物が群れの羊またはヤギであるならば、雄の全(まった)きものを捧げなければならない。彼は祭壇の北側で、主の前にこれをほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。彼はまたこれを節々に切り分かち、祭司はこれを頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上の焚き木の上に並べなければならない。その内臓と足とは水で洗わなければならない。こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて蟠祭としなければならない。これは火祭であって、主に捧げる香ばしい香りである。」 (レビ記1-10)

「すべて傷があり、欠けた所のある牛または羊はあなたの神、主に捧げてはならない。そのようなものはあなたの神、主の忌み嫌われるものだからである。」 (申命記17-1)

「もし彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全(まった)きものを主の前にささげなければならない。」 (レビ記3-1)

「あなたは、すべて初めに胎を開いた者、およびあなたの家畜の産むういごは、ことごとく主にささげなければならない。すなわち、それらの男性のものは主に帰せしめなければならない。……あなたの子らのうち、すべて、男のういごは、あがなわなければならない。」  (出エジプト記13-12)
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「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」 (マタイ福音書6-25)
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【判定】
『旧約』の神ヤハウエは、「レビ記」で捧げ物の種類や調理方法にも驚くほど指示が細かい。神への捧げ物とは「神の好む食べ物」ということで、その調理方法などの細かい注文には辟易(へきえき)するほどである。

 また、イザナミはイザナギとの国造りに際して、最初に産んだ子は、水蛭子(ヒルコ)であった。この子は、三歳になっても脚が立たず、葦船に乗せて川に流してしまった。最初の子である水蛭子(ヒルコ)は「五体満足な、全(まった)きもの」ではなかった。『旧約』の神ヤハウェが生けにえとして「全(まった)きもの」にこだわるのは、夫イザナギとの子造りを思い出し、水蛭子(ヒルコ)のようでないことを望むからである。

 一方、『新約』のキリストによる食べ物や着る物に関する考えは、極めて簡素である。物質欲を否定して精神的な気高さを重んじる。




【Round 4.そのものズバリ! 母VS父バトル】

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「しかし、わがしもベヤコブよ、わたしが選んだイスラエルよ、いま聞け。あなたを造り、あなたを胎内に形造り、あなたを助ける主はこう言われる。」 (イザヤ書44-1)

「あなたをあがない、あなたを胎内に造られた主はこう言われる、」 (イザヤ書44-24)

「主はわたしを生まれ出た時から召し、母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。」
(イザヤ書49-1)
「『わたしは産ませる者なのに胎をとざすであろうか』とあなたの神は言われる。」
(イザヤ書66-9)
「なにゆえ、わたしは胎から出て死ななかったのか。胎から出たとき息が絶えなかったのか。」               (ヨブ記3-11)
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「彼らは恐れおののき、苦しみと悩みに捕らえられ、子を産まんとする女のようにもだえ苦しみ、……」 (イザヤ書13-8)
「それゆえ、わが腰は激しい痛みに満たされ、出産に臨む女の苦しみのような苦しみがわたしを捕らえた。」 (イザヤ書21-3)
「私は久しく声を出さず、黙して、おのれをおさえていた。今わたしは子を産もうとする女のように叫ぶ。」 (イザヤ書42-14)
「シオンは産みの苦しみをなす前に産み、その苦しみの来ない前に男子を産んだ。」
(イザヤ書66-7)
「……あなたの苦しみは、子を産む女の苦しみのようでないであろうか。」
(エレミヤ書13-21)
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「地上のだれをも、父と呼んではならない。あなた方の父はただひとり、すなわち、天にいます父である。」 (マタイ福音書23-9)
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださらないであろう。」 (マタイ福音書6-14)
「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。」 (ヨハネ福音書17-17)
「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。」 (ヨ八ネ福音書17-27)
「そのときは、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。」 (マタイ福音書24136)
♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂


【判定】
このように『旧約』には、母親の子宮をあらわす「胎」という言葉が何度も出てくる。一方、『新約』にはこうした表現は一切ない。

一般に男の神と女の神を想定した場合、胎内に赤子を宿して肉体的成長をつかさどるのは女の神の役割である。これは人間の性別からの推定だが、そもそも神に似せて人をつくったのだから、神においても同様である。それゆえに、これら「胎内に……」などの表現の多用は、明らかに『旧約』の神ヤハウェが女の神であることを示している。

また、女性にしか体験することのできない「出産時の女の苦しみ」を比揄として何度も用いること自体、『旧約』の神ヤハウェは女の神だということを明白に示している。

 一方、『新約聖書』において「父なる神」と呼称するところは、まだまだ数多くあり、キリストのあがめる神は、父なる神として男の性を持った神だということは誰の目にも明らかだろう。

 これは、新約聖書の神が『天なる父』として登場するのと比較して、正反対の違いがあることがわかる。まさに「ヤハウェ」の性別は「女」であり、ヤハウェならぬ『母上★ははうえ★』なのでしょう。ヤハウェ自身が「みだりに主の名前を唱えるな」といった裏には、これがバレてしまう事を恐れての配慮である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>>>参考・引用ここまで

上記のように対戦形式で『新約』と『旧約』の神の価値観の相違を比較してしまうと、『旧約』の神ヤハウェの残虐さや執念深さばかりが目立ってしまいます。『旧約』が日本神話の続編として、夫神イザナギとの対立・抗争を引き継いだ形になっているので、やむを得ない面があるのは仕方がないと思います。しかし、もっと広義な視点から『旧約』のヤハウェの存在の必要性を考える必要性があります。

言霊学の大家、小笠原孝治さんもその著書『第三文明の通路』で以下のように述べています。

『劫初以来人類は二つの仕事をした。しかもたった二つきりである。その二つとは太古に精神文明が完成したことと、現在物質科学文明を完成せんとしつつあることである。この双つの文明はかけ離れた別個のものではなく、唯一である生命の裏と表をなすものであって、その真理は元来両手の如くに相似形をなしている。』

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陰があればこそ陽があり、逆もまた然り。両者があるからこそ渦を形成するような動きが生まれ、ウチュウが発展していくわけですね!でもそろそろ統合の時代に突入したのだと思います。では、『旧約』と『新約』の素晴らしい考察を与えてくれた佐野さんの言葉を紹介します。

>>>引用ここから
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 神ヤハゥェことイザナミがユダヤ教徒を使って歴史に果たした役割は、物質文明の推進である。『旧約』における神への供え物の細かい指示、装飾品へのこだわり、モーセに教える集団の運営の仕方、限りない欲望をこそ肯定する考えは物質文明の原動力だといえる。

もちろん、ユダヤ人の得意とする金融や組織形成力も、物質文明の進展に大きく貢献してきた。事業を拡大するに当たっては自己資金だけでは隈界があり、広く資金を集めて提供するユダヤ人主導の金融業が、物質文明を強力に後押ししてきたし、それらを国家を超えて展開してきた組織力には他を寄せつけないものがある

一方、キリストの教えは平和主義と精神的価値を重視する精神文明である。
「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」、あるいは「汝の敵を愛し、迫害するもののために祈れ」というのは平和主義そのものであるし、「地上に宝をたくわえてはならない」とか、「食べる物にこだわるな、着る物にこだわるな」というのは、物質文明を嫌って精神的価値を重視する生き方である。

キリスト的教えは素晴らしいが、平和主義や精神的価値を重視するという価値観だけでは、人類の物質文明は進展しない。

物質文明をここまで進展させてきたのは、より美しく見えるよう着る物に固執し、より美味しい食べ物に固執し、より高性能の物質や高価品に固執してきた神ヤハウェのあくなき執念と貪欲さ、そして乱れを許さない組織力が背景にあったからだといえよう。

もちろん、その物質文明がすでに限界に達し、地球環境を破壊するほどになってきたのは大いに問題である。そういう意味で現代は、物質文明を抑制し、精神文明主導のもと、再編し直すべき時代だといえよう。

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>>>引用ここまで

日月神示にも以下のようにあります。

『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。』日月神示 五十黙示録 第六巻 至恩の巻 第八帖


さて、黄泉比良坂(よもつひらさか)で追いつかれ、そこを千引(ちびき)の岩戸(いわと)で塞ぎ、それを挟んでイザナミと口論になるところまでは既にお話をしました。しかし、古事記によれば自分の醜い姿を愛する人に見られてしまった恥ずかしさ、悔しさからくる女心…、愛する人を思えばこその悲しい結果です。イザナギにしても、彼女の様子を心配して覗いてしまった結果だったのです。そもそもいきなり、追いかけるのではなく冷静に話し合えば問題にならなかったのではないでしょうか!?

しかしこの時の千引の岩戸によって、生者と死者、現世と霊界がはっきりと隔てられました。この時、『日本書紀』の一書では菊理姫(くくりひめ)という女神が出現し、イザナギに何かを告げたといいます。

『是の時に、菊理媛神亦(また)曰(まお)す事有り。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)聞しめして善(ほ)めたまひて、乃(すなわ)ち散去(あらけ)ましぬ。』

ここでは、菊理姫(くくりひめ)が具体的に述べた言葉は記されていません。イザナギはただ、その言葉を誉めたとあるだけです。そして菊理姫の、この謎めいた場面を最後にイザナギは嬉しそうに生者の世界へ還っていきます。

そして日月神示の五十黙示録にはこのシーンの続きとなるような、謎めいた一文が存在します。

『この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。』日月神示 五十黙示録 第二巻 碧玉の巻 第十帖


ですから上記から察することが出来るのは、菊理姫(くくりひめ)の役割というのは、夫婦喧嘩をしてしまったイザナギとイザナミの仲を括(くく)る、取り持つ事であることが予想されます。そしてイザナギは現実界、イザナミは霊界を象徴し、その間を塞ぐ「千引の岩戸」とは、その2つの次元の境界線を示しているのではないでしょうか?

またこれに関連して以下のようにも記されています。

『いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の治らす国もナミの命の治らす国も、双方からお互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ。』日月神示 五十黙示録 第六巻 至恩の巻 第十一帖

『岩戸開く仕組 知らしてやりたいなれど、この仕組、言ふてはならず、言はねば臣民には分らんし、神苦しいぞ、早う神心になりて呉れと申すのぞ、身魂の洗濯いそぐのぞ。アイカギ 、コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ。』日月神示 第二巻 下つ巻 第二十二帖
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要は、イザナギとイザナミの仲直りが、スメラ国(日本)とユダヤ国(イスラエル)の和合であり、更には 現実界と霊界の統合 でもあるんでしょうかね!?そして、その仲直りの雛形が『イシヤトシカテニギルコト』なのでしょうか!?

『今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根元のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国とユツタ(ユダヤ)神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光りて輝く御代ぞ楽しけれ。』日月神示 第十八巻 光の巻 第六帖

もし、現実界と霊界の和合 が相成ればこの『審判★ジャスティス★』のタロットカードのように、豊穣の大地エデンの園に置かれた、黄金の棺の中から、死者が蘇るのかもしれません。彼の「ヨハネの黙示録」でも、例えimagesCAJO4KMR.jpg災いに巻き込まれて命を落としたとしても、生き返って『最後の審判』の裁きを受けることになるのです。


死者の復活・・・現実界と霊界の千引きの岩戸の境界線が開かれれば、それは近い将来ありうることかもかもしれませんし、今回の人生劇の監督が描くシナリオの一部だったりするかもしれませんね!

『判らんと申すのは一面しか見えぬことであるぞ、双方を見る目に、早う改心致してくれよ。この白黒まだらな時は長くつづかん、最も苦しいのは一年と半年、半年と一年であるぞ、死んでから又甦られるように死んで下されよ、マコトを心に刻みつけておりて下されよ』日月神示 五十黙示録 第二巻 至恩の巻 第十二帖

『死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、神々様も森羅万象の悉くが同様であるぞ、しばらくの生みの苦しみ。八の世界から十の世界になるのであるから、今迄の八方的な考へ方、八方的な想念や肉体では生きては行かれんのであるぞ、十方的想念と肉体でなくてはならんぞ。』日月神示 五十黙示録 第二巻 至恩の巻 第十三帖

『八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸ひらきぢゃ。』日月神示 五十黙示録 第二巻 至恩の巻 第十四帖

太陽は十の星を従へるぞ、原子も同様であるぞ。物質が変るのであるぞ、人民の学問や智では判らん事であるから早う改心第一ぞ、二二と申すのは天照大神殿の十種(とくさ)の神宝に (テン)を入れることであるぞ、これが一厘の仕組。二二となるであろう、これが富士の仕組、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。富士(不二)と鳴門(ナルト)(成答)の仕組いよいよぞ、これが判りたならば、どんな人民も腰をぬかすぞ。一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは完う出来ん、九分九厘で【リンドマリ】ぞ、神道も仏教もキリスト教もそうであろうがな、卍(ぶつ)も十(キリスト)もすっかり助けると申してあろうがな、助かるには助かるだけの用意が必要ぞ。用意はよいか。このこと大切ごと、気つけおくぞ。なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士(普字)晴れるぞ、大真理世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ。』日月神示 五十黙示録 第二巻 至恩の巻 第十六帖

「千引の岩戸開き」、そして来るべき「ミロクの世」が、行き詰っている物質文明の善悪双方の解決策となることを期待するばかりです。

↓↓↓最後はこれで閉めます。はやく3次元世界と融合したい~~


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人生はアクション映画
人生はアクション映画ですか。興味深い考え方ですね。
peace68 URL 2011/06/20(Mon)13:43:57 編集
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