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1985年8月12日、羽田発大坂行き 日本航空JAL123便は、524人を乗せて離陸。
そのすぐ44分後の午後6時56分、群馬県、御巣鷹山に墜落。
乗客のうち生存者は全員女性の重症4名。翌日8月13日に救出されたものの、525人は還らぬ人となりました。
しかし、信じたくはないがこの“墜落事故”の真相が巨大な陰謀に包まれているとしたら・・・。
まずは以下の動画をご覧ください。
↓↓↓JAL123便墜落事故概要
↓↓↓JAL123便 ボイスレコーダー(短く編集されています)
↓↓↓墜落事故翌日4人の生存者
奇跡的に・・・いや奇跡によって一命を取り留めた乗客4名の内、現役のスチュワーデスで、
当日は非番で同機に乗り合わせていた落合由美さんの証言の内、重要と思われる部分を転載します。
~略~そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい音がしました。テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。「バーン」ではなくて、高めの「パーン」です。急減圧がなくても,耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異常は、まったく何も感じませんでした。
音は、私のちょっとうしろの天井のあたりからしたように感じましたが、そこだけでなく全体的に広がったように思います。私は思わず天井を見上げました。しかし、振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった。
~略~このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし、何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながら、きょろきょろあたりを見まわしていました。
あとになって、8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では、客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いた、とありますが、私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。ですから、開いたのかどうか、私は確認できませんでした。
~略~機内の様子は、あわただしい雰囲気とかパニックなどということではなく、この段階では、まだ何とかなるんじゃないか、という気持ちがあったように思います。ただ、コックピットからの連絡は何もなくて、みんな不安な表情ではあったのです。このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。
~略~このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、前と同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、お客様の座席の下のベストをひっぱって、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。まっすぐ歩いて、あたりを見てまわる、ということはもうできません。
~略~揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。
~略~安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。しかし、上下の振動はありませんでした。前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。聞こえたのは、それだけです。
そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。
怖いです。怖かったです。思いださせないでください、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。私も、これはもう死ぬ、と思った。まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんか、とても見る余裕はありません。いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとりつつ”けるしかけるしかない。汗をかいたかどうかも思いだせません。
~略~衝撃は一度感じただけです。いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、私はもう怖くて、顔をあげた。その途端、顔にいろんなものがぶつかってきました。固いもの、砂のようなものがいっぺんに、です。音は、まったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。
衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前は、もやーっとしているだけです。墜落だ、と思いました。大変な事故を起こしたんだな、と思ったのは、このときでした。
~略~墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。
そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。
「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。
次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのか、わかりません。
~略~どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。
それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。
寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。
突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。さかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。
私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。
~略~やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。
このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。
(吉岡忍著「墜落の夏」新潮社より)
続いて4人の生存者の内、当時12歳だった川上慶子は後に以下のようにも語っています。
「ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。
ああーこれで助かるわって皆で言ってたら、ヘリは引き返した。
これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれると話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」
史上最大の航空機事故の惨状は生存者の証言が何よりも心に響き、そして真実を伝えます。
事故から、20数年経過した現在も、事故原因の再調査、真の原因究明が遺族をはじめ、多くの人々から叫ばれています。この世界最大の航空機事故はあまりにも不可解、が多すぎます。
背後に真相を握りつぶす、巨大な陰謀を感じます。そう、911の航空機テロのように・・・。
これからお伝えするのは後に「JAL123便 米軍幻の救出劇」と呼ばれるものです。
日本航空123便 墜落事件②へ続く・・・
↓↓↓↓上記の日航123便墜落事故のブログ記事や写真は以下を参考に記しています。
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